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2019/06/29

はたらくおとなたち -第九回 首里石鹸やコールセンターを運営する 株式会社コーカス代表取締役社長 緒方教介-

みなさん、こんにちは!『はたらくおとなたち』では、社会人としてはたらくみなさんに伺った、ご自身の仕事やそのやりがい、将来どんな人になりたいかといったお話を、読者のみなさんにお伝えしていきます。

インタビュー後、お相手の方に社会人としてはたらくご友人の方を紹介していただきながら、わたしたちは多様なはたらき方を知る旅をしていきます。第九回目は、首里石鹸やコールセンターを運営する、株式会社コーカス代表取締役社長、緒方教介さんです。

 

プロフィール:

緒方教介
株式会社コーカス 代表取締役社長
大阪府豊中市生まれ。母親の商売を手伝いながら子ども時代を過ごす。18歳で福岡の九州産業大学芸術学部へ進学し、写真を専攻。1999年に沖縄へ。道売りなどの経験を経て、株式会社コーカスを設立。現在は、コールセンター事業の他、保育事業や首里石鹸の物販事業にも力を入れている。

 

プロフィールに書いてあるように、幼少期はお母様のお手伝いをしていたとのことですが、どのような子ども時代だったのですか?

オカンが「ベルベル緒方」という屋号で商売やっていたんです。大阪の中央に、船場センタービルという商業ビルがあるんですけど、朝そこで二千円のブラウスなどを仕入れて、午後に大きな企業の近くに仕入れた服をガラガラと引き入れて飾るんです。そうすると「ベルベルさん来た!」と言ってそこの職員さんがやって来てお買い物が始まる。

当時は十倍値付け。朝二千円で買ったブラウスは二万円で売るんですよ。ただ売るわけでは無く、サイズを直したり、レースや装飾を販売しながら提案して注文をもらう。持ち帰って直して送る。だから10倍値付けでもお客様からしたら高くないんです。オーダーで気に入った服を買えるから。みんな楽しそうに買っていましたね。

オカンは自分では店舗を持たずに催事場を売り歩いていて、まさに行商のような商売をしていました。小学生の頃の僕の目当ては、お手伝いをしたら喫茶店で遊ばせてもらえたインベーダーゲーム(笑)。仕入れた洋服のタグを付け替えたり、一緒にお店を回って荷物持ちをしていました。

祖父と祖母と4人暮らしでしたが、オカンは女手一つで僕を育ててくれていたので、働きながら子どもの面倒を見る必要があったんです。それで、働きながらでも僕が学校から帰る頃には料理を用意してあげたい、土日は休んで一緒に居てあげたい、まわりより良い暮らしをさせてあげたい、という思いは強かったように感じます。

女だからといって馬鹿にされたくない。同情されたくない。って思いがあったんじゃないかな。当時、女性が働くと言えばお茶汲み仕事が多くて、今と比べて選択肢も少ない状況。そういう時代の中で、働きながら自分の時間を確保してちゃんと稼ぐためには、どこかに雇われるっていうのは現実的ではありませんでした。独立して自分で商売をしようと決めて、初めは神社でブローチを並べて売り出したそうです。そうしたら思いのほか売れたみたいで、もっと高く売れるものはないかというところで洋服を商材として扱い始めるんです。

 

緒方さんから見て、どのようなお母様だったんですか?

それはもう、かっこよかったです。とにかく僕にとってヒーローでしたね!その一方で、恥ずかしさとは一切縁のない人で、一万円の洋服を見つけて「なんでこんなん一万円もすんねん?」と。大きな声で言う。一緒にて恥ずかしかった(笑)。ようは、難波のオバハンなんです(笑)。でも、その大声にはオカンなりの戦略がある。

この声に販売員さんが反応する。販売員さんは買って欲しいから営業してくる。買って欲しい人と、安くなるんだったら買っても良いよ。って人との攻防は火を見るより明らかに後者に分がある。結果、十分の一のくらいの値段で手に入れるんです(笑)。だいたい店員さんはオカンに声を掛けたことを後悔してました(笑)。

声は大きいし、人前で僕のことをよく怒るし、値切るしで、オカンと歩くことに恥ずかしさを感じることもよくありました。ご飯屋さんに行っても、「これ不味っ!」って”とりあえず”言う。で、安くしてもらう(笑)。

生活の中に常に商売があるんです。そういう生活をしていたので、子どもながらに、目に見えているものだけが全てではないっていうことは知らず知らずの内に教わっていたと思いますね。100円で売られているモノは100円なのか?自分の必要な金額で買うことができるんだ!と。まさか切手が値切れるなんて普通の人は考えもしないと思うんですよ(笑)。そういう駆け引きの世界を見せてもらったし、同時に、商売に対しての格好良さというのも良い意味で教えてもらったと思っていますね。

 

でも母親に対して、強烈な劣等感も抱いていたと思います。オカンがスゴ過ぎて‥‥。僕は、親の枠の中でしか生きることができないのか。僕だって、外に出てもできるんだぞと。それで、とにかく親元を離れたくて福岡の大学へ進学したんです。後で聞いた話では、オカンも早く自宅から僕を出したかったそうです。世間にもまれて自分の足で生きることを身につけて欲しかったようです。

大学へ行ってすぐに分かったことは、関西の人が県外に出ると良い意味で人モテするんだ!ということでしたね。先輩、同級生、女子からも。そんな勢いもあって、大学でサッカーサークルを作って。それだけでは飽き足らず、地域の大学のサッカーサークルを集めて、スポーツショップに協賛してもらってサッカー大会も開催しました。半年間で戦うリーグ戦を実施して、最終的には16チームくらいが参加するものになったんです。めちゃめちゃ楽しかったですね。みんなで集まって何かを成し遂げるということに喜びを覚えた瞬間だったとも思います。

しかし、いつからかお山の大将になってしまっていたところもあったなと‥‥。僕が先輩というだけ、ただ仕切っているというだけで、そこには何の主従関係もないのに一緒にやっていた後輩に対して段々と命令口調になっていってしまったんです。

それが原因で一度、どんどん人が離れて、可愛がっていた後輩を中心に飲み会とかも始まるようになって‥‥。せつないんですけど、言うに言えないんですよ(笑)。そんな状況に当時は怒っていましたね。でも、もし逆の立場だったらって考えると、僕だって離れていったと思うんですよね、当時の自分からは。その時期から大学の専攻授業の写真に没頭し始めて。それが今の会社の商品写真のこだわりなどに繋がっていますね。

 

大学卒業後はどうしようと考えていたのですか?

大学時代は、マハラジャ(当時のディスコ)やバーでアルバイトをしていたのですが、自分には生活のリズムが合わないと気づいてその道はあきらめて、他の仕事を探し始めるんですけど。

僕、明石家さんまが大好きで。その頃、さんまさんが主演でツアーコンダクターの役をしていた『男女7人夏物語』っていうドラマが放送されていて、それに憧れてJTB専属の添乗員の会社に就職しました。でも、とにかく働きたくなかったですね。大学生活が楽しすぎちゃって、その感覚がなかなか抜けなかったんです。結局、添乗員は一年半くらいで辞めて、映画を作りたいと思ってコピーライターになろうと上京することになりました。

母親に紹介された職場から人づたいに働き口を紹介してもらって、政治家の事務所でお手伝いをしたりイベント系の会社でお手伝いをしたりして、特にイベント系の会社では華やかな世界もたくさん見せてもらいました。当日までは様々な問題がありケンカのようなこともたくさん起こるんですけど、当日の成功でクライアントもお客さんも喜んでくれて僕たちも抱き合って喜んでるんですよ。

そういう経験をさせてもらって。当時はまだよく分からないことも多かったんですけど、仕事っておもしろそうだなと。半年間働いた給料はG-SHOCKの時計1個だけでしたけど(笑)。

その時期から大学生に戻りたいという気持ちは消えていましたね。最終的に東京の通信販売会社にカタログのコピーライターとして就職するんですけど、そこで初めて安定した給料がもらえるようになって、組織の中で役割を持たせてもらえて。一気に仕事が楽しくなったことを今でも覚えていますね。それが25歳くらいのことです。

そこで、社会人としての基礎を叩き込んでもらいましたね。上司にも恵まれて仕事の力がついてきて、俺もっとできるぞっていう思いが給料や役職が上がってくることで明確に自信に変わっていきました。3年間で、月に1億円を売上げるカタログの編集長になって、数字や商流といった部分も徹底的に学ばせてもらった。そんなことを沖縄で働いている同級生にも話していたんです。

そうしたら、その友人が、教介みたいな人が必要!ぜひ友人が働いている沖縄の広告代理店の社長に会ってみないか?と誘われて。その頃、もちろん仕事は楽しくて刺激的だったんですけど、東京での生活に少し無理している自分もいました。沖縄は添乗員時代に何度も訪れていて良い場所だなと思っていたということもあって、沖縄へ転職したんです。一年後、職を失うことになるんですけど‥‥(笑)。

 

何があったんですか?(笑)

その会社は広告事業で売上を伸ばしていきたいという思いがあったのですが、なかなかうまくいかなかったんです。僕は、沖縄に来て結婚もしていたので稼ぎたい。モノの売り方には自信があったので物販をやらせてくれと言って、国際通りにスペースを借りて商品を仕入れて売っていたんです。物販は可能性があるなと感じていたのですが、結局、方向性の違いから一年で会社を出ることになりました。オカンと同じ、道売りとして商売を始めることになるんです(笑)。

道売りをする事をオカンに言うと、何も言わずB品の洋服を大量に送ってくれました。オカンの助けもあって質の高い洋服を売りに出せたり、道売り仲間が良い品を提供してくれたりと、朝は泊の市場、日中は国際通り、土日の夜はハンビーナイトマーケットで売り歩いてコンスタントに稼げるようになってきました。貝殻や浜辺の砂でお土産の品を作って、売れるものはなんでも売りましたね。月にしたら毎月200万〜300万円の売上です。

しかし、お金は貯まってきたものの、将来性が見えませんでした。これから子どもも生まれる、どうしようかというところに、たまたま年賀状のやり取りだけは続けていた、東京で働いていた頃の通信販売会社の社長から、コールセンターを自社で持ちたい。できる人はいないか?と連絡が来たんです。「沖縄でやるなら僕がやります!!」と名乗りを上げて、僕が子会社の代表取締役として6名でコールセンター事業をスタートしたんです。子会社の代表ではありますが、個人で資本金も積んで初の法人登記をした独立でした!

10坪の事務所で6人からスタートしたその会社は、9年後、100名の組織になるまで成長しました。が‥‥。ここでは話せない、色々な、本当に色々な出来事があって‥‥。僕は9年間代表をしたその会社を退任することにしました。

 

ゼロからのスタートを余儀なくされてしまったと‥‥

今までやってきたことを何もかも失って、仕事もなければやる気もない、高層階に立てば、ここから飛び降りれば‥‥という想像しかできないほどの精神状態でした。お付き合いのあったクライアントさんからもまたコールセンターを立ち上げてくださいと言われ、ご支援の手を差し伸べてもらったのですが、やりたくても前の会社からお客様を奪ってしまう行為は絶対にNGですし、競業義務違反に抵触するような事業は法律上出来ないという状況でした。

そんな絶望の淵に居る僕に勇気をくれたのは当時7歳の娘でした。どこで覚えたのかは知りませんが「神様は超えられない壁は与えないんだよ」と言われて、涙が止まりませんでしたね。忘れられない出来事です。

途方に暮れている毎日を送る中、ある日、コールセンター事業のメンバーだった4人が元の会社を辞めて集まってきたんです。僕のところには何もないと言うと、4人は大丈夫ですって答えるんです。会社を作ることもできないと言っても、いや大丈夫ですと。どんな根拠があったのか、なぜ来てくれたのかは未だに分からないですけど、その励ましのおかげで再び立ち上がることができたんです。

 

そのメンバーの一人であった屋宜さんに話を伺いました。

(屋宜さん)

県外から沖縄に来て、アルバイトをしようってなった時にまず時給の低さに驚いたんです。だから、一番時給の高いところを探したというのが前の会社に入ったきっかけです。それまで、仕事って雇用者と労働者の関係があって、その対価としてお金があるだけの集まりだと思っていました。

でも、社長が会社をどうしていきたいか、それ以前に人と人とのつながりを大切にしているという考え方に近くで触れていたことで、私自身の仕事に対する考え方も変わりましたね。社長が退任した際、後を追ってきたのも、私が社長を人として尊敬できる人だと思ったからです。

当時は社長のところには仕事がない、私は24歳くらいで給料も2223万はもらっていた仕事を辞めてきたのですが、それでも不安はなかったですね。やってみてだめだったら、だめだろうっていう感覚で(笑)。それでも、社長だったら何かやれるだろうという思いはありました。実際に社長と集まって、明日どうしよう。から始まった時は、結構ヤバイんだなと思いましたけど‥‥(笑)。

 

そこから、どうやって立ち上げられたのですか?

(緒方さん)

まさに、明日からどうしようかというところで、あるクライアントさんから沖縄にコールセンターを作るからそこのコンサルタントとして入ってくれないか?とご相談をいただいたんです。

コールセンターをやるわけじゃないので、法律的にも大丈夫だろうと。結果、コンサルを引き受けることになり、その際、法人としての登録が必要だったので真嘉比のレオパレスでファーイーストコミューンという会社を設立。それが今のコーカスの前身となった会社です。

数ヶ月後には会社のキャッシュが40万円になる経営危機も迎えましたが、みんなの頑張りとクライアントさんのご協力でなんとか乗り越え軌道にも乗り始めました。しかし、朝から晩まで忙しくしていたこともあって創業メンバーが一人また一人と辞めていってしまったんです。

屋宜も結婚はしていたのですが子どもはおらず、そろそろ子どもを作る年齢だな‥‥。なんてことを僕なりに思案していた頃。何気なしにこんな質問したんです。「今後どうしていきたいのか?」と。

すると彼女は、「この会社を、沖縄で一番人が集まる会社にしたいです」と答えが返ってきて。新宿の喫茶店でしたが、泣きそうになりました!てっきり子どもを産んでお母さんになりたい!って言うと思っていたんです。俺よりもこの会社を愛してるやつが傍に居る!これはめちゃめちゃ嬉しかったです!

大学時代、サッカーサークルでも人が離れてしまって、9年前の第1創業の会社もはじめは離職率75%。給料が上がったとか、目に見える形で何かを成長させていかないと人が離れていくという恐怖感がずっとあったのですが、その一言で違う価値観の世界があるんだと気づかせてもらって、すごい救われましたね。

今でもその言葉「沖縄で一番人が集まる会社にする」は、会社のスローガンになってます。

 

話は変わりますが、

立ち上げから貢献してくれていた女性マネージャーが産休に入る前に「子どもが生まれた後戻ってきてもいいですか?」と聞かれたことがあって。すごく会社に貢献してくれたメンバーが、お伺いを立てないと戻りにくい会社なんだ!って、その時ハッとさせられた質問でした。

貢献者に心配をかける会社運営をしていることがすごく悔しかった。だから、働き方に多様性を持たせるために保育園や首里石鹸の物販事業を作りました。その事業が当たるかどうかだけじゃなくて、今いる人たちが長くやり甲斐を持って働ける仕組みを作りたい。

今では改善されていますが、シフトで動いていたり、役職になると時間が読めなかったりと、一昔前まではコールセンターは長い期間働くには優しい職場では無かったんです。

そこで、母親になったメンバーが戻ってきてコールセンターが合わなかったら、物販事業で働けるように。であれば、子どもと一緒に使えるものを販売しよう。そうした考えの先にあったものが「天然物」であり「石鹸」。首里石鹸は、石鹸の販売を目的にした事業ではなかったんです。

 

働きたくないという時期を経て今に到る中で、やりがいや大事にされていることは何ですか?

人が本当に感激するときって、言葉にならないと思うんです。だから、私たちは「ありがとう」を超える「WOW!!」を生み出そうということを言っているのですが、それを僕自身が学生時代に知ることができていたら、もっと成長できていたと思いますね。自分を通して「WOW!!」を生み出せるようになること、僕にとってはそれがやりがいです。そこが楽しいと思えるようになったら一流なんじゃないかなと思います。

もう一つは、オカンから学んだ人とのつながりを大切にするということ。オカンはツケで服を売ることもあったのですが、阪神淡路大震災で未払いだったお客さんと半分以上連絡が取れなくなってしまったことがあったんです。

どうやって回収するの?と聞くと、回収なんかしないよ。と言って、ひとり、ひとりに安否確認の手紙を出して、心配やわーって言ってるんです。そこで商売はお金儲けが目的じゃないんだなということを知りましたね。

人と人とのつながりを持ち続けていくことが仕事の本質。だからこそ人を感激させることは大切で、そのための努力を僕たちは怠ってはいけないなと思います。

 

最後に、これを読んでいる人たちに向けてメッセージをお願いします!

学生さんが多いと聞きました。20代は、もがいて、苦しんで、羽ばたくんだと思います。

エネルギーのやり場が分からないということにモヤモヤした方がいいし、悩んだり葛藤することはとても大事なはずです。そこに後ろめたさを感じる必要はないです。でも、悩み方は「なんでこうなるんだろう」じゃなくて「どうしたら良くなるんだろう」と考えること。

「なんでフラれたんだろう」は答えが見つからない。そうじゃなくて「どうしたら好かれるんだろう」は良い行動に移せるんです。そういう文脈で物事を考えて、自分に投げかける問いの質を変えていく。

世の中には理不尽なことだって起こると思いますが、ぜひ、そうやって上を向いて考えて行動していってください。その先には必ず「成長」という報酬が待っています!

 

緒方さん、ありがとうございました。取材をさせていただきながら、どんなに苦しかったり悩んだりしたことがあっても、前を向いて行動し続けることでその先の道が切り拓かれていくんだなと強く感じました。そして、そこで大切なのは人とのつながりであり、自分自身の姿勢であるということも。目の前のこと一つひとつに対してどういう気持ちで向き合い何を目指すのか、考え直すきっかけとなりました!

 

さて、次回はどんな方にお話をお聞きできるのでしょうか。今から楽しみです!みなさん、次回の記事も是非読んでくださいね!最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!

記事を書いたメンバー

記事を書いたメンバー

松田 和幸

琉球大学生。トポセシアの広報担当。SNS運用や広告物の制作、取材・執筆を行いながら、沖縄県内のwebメディアでもライターとして活動する大学生。おもに就活生に向けた企業紹介記事を書き、他のwebメディアでは企画記事なども書いている。オモコロとデイリーポータルZが開催した『日本おもしろ記事大賞』という記事のコンテストで、審査員賞を受賞したことがある。