50人が語る「わたしの道」ライフキャリアマップ
2023/05/19
50人が語る「わたしの道」ライフキャリアマップ ー町田 隼人さんー
トポセシア10周年を記念してスタートした本企画は、これまでトポセシアに関わってくださった方の中から50人にインタビュー。
これまでのキャリアの中でどのような道を歩んできたのか、そして、これからどんな道を歩んでいくのか、記事として綴っていきます。
何かに迷った時、もう一歩踏み出したい時、また違う誰かの力になるはずです。
沖縄市・一番街の一角にあるアトリエ。
中に入ると、絵の具の匂いが立ち込め、外とは違った雰囲気を感じます。
このアトリエを拠点として、県内外での展示会や制作で活躍するアーティスト 町田隼人さんに、これまでの道のりを伺いました。
絵と生き物に夢中だった幼少期
幼い頃から1人が好きで、どちらかといえば積極的とはいえない性格ですが、絵を描くチャンスがあれば、積極的にチャレンジしていたのだそう。
「小さい頃から絵を描くのが好きでした。近所のスーパーに展示される父の日とか母の日の似顔絵コンテストに出したりとか、チラシの裏の白紙に色々書いていたなって覚えています。小学生になってからは、家で描くことは減ったんですが、コンクールとか卒業式の壁画とか、クラスTシャツとか、デザインとか絵に関わることは色々やってました。」
絵を描くことに限らず、好きなことには時間を忘れてとにかく夢中になるような小学生時代。
「生き物がすごく好きで、小学生の頃は虫取りに夢中になって、よく遅刻して怒られてました(笑) 満足するまで、ひとつのことにずっとのめり込む感じだったと思います。」
中学生になると、親のすすめでバスケットボール部に入部。
「バスケットは好きでしたが、部活となると遊びとは違うので、遊びの延長線上のようなものに対して(顧問の先生に)怒られているという感覚というか。自分がやりたいと思ったことに対して怒られるのなら成長するので良いと思うんですが、プロになりたいなど目標も何もないのにただ動いて怒られるのも嫌だし、言われたことをただやっている自分も嫌で、それを言えない自分に対してもすごくストレスがありました。」
体を動かすことは好きでも、団体行動や怒られながらスポーツをすることが嫌だったのだそう。自分で好きになったものにはとことん夢中になる町田さんですが、言われるままに動くことには強い抵抗があったようです。
絵で生きていけるのか、葛藤した学生時代
中学3年生になり進路を考え始めると、絵の仕事がしたいという気持ちがぼんやりと浮かび始めます。
「開邦高校の芸術科も考えたんですが、(自宅から)遠かったのと、専門性を高めるのはまだ早いかなと思って、普通科の高校を選びました。一応、絵の仕事ができたら良いなっていうのは頭の片隅にはあったんですが、現実性がなくて。普通科に行ったらまだ迷えるかなと思って決めました。」
芸術科への進学こそしなかったものの、絵を描くことは辞めなかった町田さん。
「高校では、美術の時間とかに描いていたくらいで、自主的に絵を描く機会がなかなかなかったですね。でも、休み時間とか授業中に落書きしたり、(各教科の)ファイルの表紙に、国語とか数学の文字をアレンジした絵を描いたりはしてました。その頃は学校がすごく楽しくて、将来を考えることはあまりなかったですね(笑)」
進路を考える時期になると、再び仕事として絵を描くことができないかと考えるように。
「美大か芸大に行こうと思って調べてて、担任の先生は応援してくれたけど、親には反対されました。親には『美大とかいって将来どうするの?食べていけないでしょ?』っていう現実的なことをずっと言われてて、まあそうだなと思いつつ。県外の美大も考えたんですが、学費が高いし、美大に行くなら学費は出さないと言われて。」
将来の生活を心配する両親から反対を受けてしまい、大学で芸術を学ぶ道は諦めることになりますが、他に絵を描く方法がないか模索したのだそう。
「芸大のパンフレットの就職先の欄を見ると、就職先は一般企業に行く人が多くて、就職率も低かったんですよ。今なら(事情が)分かるんですが、就職せずに作家活動をする人も多いので、就職しない人もいると思うんです。でもその頃は、大学に行って就職率が低いのって大丈夫かなって思ってしまって。そういうところを知って、芸大に行きたいという気持ちがなくなってしまい、絵を仕事にするよりは趣味がいいかなとか、バスケのセレクトショップを自分で(デザインしながら)つくれたらいいなって思って、経営学とかマーケティングを学べる沖縄国際大学に決めました。」
やりたいことと現実的な課題を両立する方法として、自身でバスケットボールのセレクトショップを経営してデザインを続けるために大学に進学しますが、ある出来事から、また芸術家への道が浮かび上がってきます。
「Twitterに少し絵を載せていたのを大学の実行委員の人が見てくれて、大学1年生の頃に学園祭のポスターデザインの話が来たんです。それで絵を描くのが楽しいなって改めて思ってしまったんです。やっぱり絵を描きたかったことを思い出して、それからずっとモヤモヤしていて。一般大学の人でも、芸術家になるためにはどうしたらいいんだろうって思って調べ始めました。」
今の立場から芸術家になる方法を模索しますが、はっきりとしないまま時間が経ってしまいます。
「モヤモヤをどう晴らしたらいいか分からないから、アメリカに行こうと思って。ニューヨークは現代アートが盛り上がっているし、好きなアーティストもニューヨークで活動していたので、現地の人に話を聞いたり、そこの空気を知った上で、趣味にするか本気で仕事にするかを見極めようと思って、大学2年生に休学して行きました。」
英語に不安はありましたが、行けばなんとかなるだろうと思い、ニューヨークに留学することに決めました。その準備として、沖縄にいるうちからニューヨークのアーティストへ連絡することを試みます。
「アーティストに会うことが目的だったのですが、見ず知らずの人にただコンタクトを取っても返信がもらえないと思ったので、沖縄出身でニューヨークで活動しているアーティストを調べてみると照屋勇賢さんを知って、メールを送ると返信をいただいて直接お話を聞くことができました。」
世界で活躍する沖縄出身のアーティスト 照屋勇賢さんからお話を聞いているうちに、芸術家としてのあり方を再認識したのだそう。
「話を聞くまでは、アーティストは好きなことをただ表現していると思っていたのですが、研究者並みに色々なことを考えて、その上で表現しているということを知って。それがすごくかっこいいと思ったんです。食べていけるかどうかということよりは、自分が真剣に考えていることを表現していることがかっこいいと思えて。他にも、勇賢さんに紹介していただいたアーティストの方々も話がおもしろいし、この人たちの空間にずっといたいと思って、留学から帰る頃にはアーティストになろうと決めました。生きてるっていう感じがして、こういう大人になりたいと思いました。」
その頃までは、休みのことばかり考えていたり、給料をもらいながら愚痴ばかり吐いているという大人のイメージを持っていたという町田さん。
そのイメージとは違い、ニューヨークで活躍するアーティストは、真剣に考え、また考えたことをお互いに話し合うような文化の中で生きていることに衝撃を受け、この道に進むことを決めます。
「沖縄に帰ってきてからも、収入源とか現実的にどうやってアーティストは生きているんだろうということがやっぱり分からなくて。(芸術家になる前に)まずは社会人になってからでもいいかなと思って、例えばアーティストを起用するような広告代理店とか、デザイン関係の仕事に就いて、仕事に繋がるまでの仕組みを知ろうと思い就職活動をしてました。」
就職活動は順調に進み、広告代理店の最終面接まで控えていましたが、その頃にまた大きな転機を迎えます。
「ほぼ就職が決まっている会社があったのですが、最終面接直前の展示会で自分が描いた絵が売れたんです。でも、副業が禁止だから絵の売買はやってはいけないと言われてしまって。自分の中では、芸術家になるために就職するのに、本来やりたいことができないのは矛盾していると思って入社を辞退しました。絞って就活をしていたので他に内定もなくて、もう就職しなくていいやと思って(笑) 絵が売れたタイミング的にも、無理に就職しなくていいよって言われているように感じられる出来事が続いたので、どうにかなるかなと思ってこの道に進もうと思いました。」
芸術家としての道を歩むことを決心しますが、公務員のような収入が安定した職業に就くことを願っていた両親からは猛反対されてしまいます。それでも、現実的なことも深く考えた上で決心した町田さんの気持ちは強くありました。
「その頃はバイトをしていたのですが、今までの自分の経験だとダラダラしていたらチャンスは回ってこないと思ったので、収入を全部断ち切って、実家を出て一人暮らしをして。ちょっとしかない貯金でどうしようかという時に参加した展示会で絵が売れたので、どうにか生きていけそうだなと思えました。それがずるずると続いて、今こんな感じです(笑) 活動する中でお金はシビアな部分ですが、厳しい時に絵が売れて、続けてくれって言われているような感じがしています。」
とにかくまっすぐと好きなことへ進む町田さんの姿は、虫取りに夢中になり学校へ行くことも忘れてしまっていた幼い頃とどこか重なります。
「社会人って、やりたいくないことをやっている人が多いイメージがあったので、(そうなると)部活みたいに戻ると思って。自殺する人や鬱になる人もいて、それは嫌だなと。そういうことを考えないようにするためには、好きなことをするのがいいなと思ったのでストレスはないです。人に何かを言われることもないし、自分らしく生きている感じがします。全部自分の責任になるので、自分が目指したい方向にはもっと真剣になれていると思います。」
小さい頃から気になっていた”矛盾”がテーマに。
「小さい頃から生き物が好きで飼っていたのですが、好きで飼っているのに小さいケースに入れてしまってかわいそうだなとか、でも逃したくないなとか。そういう小さい頃に考えていて言葉にできていなかった感覚が言葉になると、矛盾しているなって(気づいて)。」
生き物のことに限らず、幼い頃から物事の矛盾が気になっていたのだそうで、作品にもそれが現れており、多くの作品が”両価性”を持っています。
「小さい頃から矛盾することに対しての疑問を持っていて。例えば、親が悪いとすることは外では良いといわれることとか。ニュースで沖縄の基地問題を見ても、賛成とか反対で割り切れないこともたくさんあるなと思っていて、自分が考えていることや生き方も、1つの方向に決められなかったり。それをテーマにしようと思っています。」
“矛盾”を考える癖があった町田さんですが、沖縄や自分の興味分野が抱える矛盾を考えるようになったのは、ニューヨークでの経験から。
「ニューヨークにいるときには、どこから来たのか、地元はどういうところなのかとか、自分のことを説明しないといけない場面が多かったんですが、住んでたはずなのに全然知らなくて。それから自分はどういうところに住んでいたのかとか、抱えていることとかを調べているうちに、それを作品として残しておきたくて表現していました。ずっとそれをやりたいわけじゃなくて、自分自身が考えるために作品として残している感じです。」
あくまで自分自身が研究して、感じたことを表現する方法として沖縄らしさを感じる画風が多かったのだそう。
「自分としては沖縄を描きたいと思っているわけじゃないけど、沖縄っぽいものを描いている人と見られることが多くて。沖縄らしい絵を描くと地域性がすごく出て、お土産みたいな感覚がすごくあるなと思っていて。例えば、「LIONEL」(ライオンをモチーフに花で表現した作品)をどこかに持って行くと、その空間が沖縄っぽくなってしまうのが嫌で。沖縄というワード(やモチーフ)を使わなくても表現できるように突き詰めたいと思っています。」
今後は、一見画風に沖縄らしさは感じられないけれど、実は紅型の型紙を使っている作品など、ルーツやアイデンティティに沖縄がありつつも、表現方法が広がった作品を制作していくのだそうです。
町田さんの視点は、再び沖縄から海外へ向いています。
「現代アートの市場で見ると、まだ日本は美術館以外での絵を見る環境が整っていない感じがしていて。表現する=見てもらいたいという思いがあるので、見てくれる人が多い海外に拠点を移したいと思っています。そのステップとして、表現力とか、考えていることを研究するために、地元の芸術大学の大学院に行きたいと思っています。質の部分を高めていって、海外で活動できるようになりたいです。」
絵を描いて生きていく、今の生活を「ノンストレス」と笑顔で言い切る町田さん。
「絵を描くのが好きというのが根底にあって、それを形にしていったのは中高生の頃の落書きやニューヨークの経験だと思っています。例えば立体物を作るときには、最初は針金で形を作って粘土をくっつけていくのですが、好きっていう針金だけだと形にもならないし弱いので、ニューヨークの経験とかが粘土としてくっついていって、これから研究や勉強をしてもっと細かく人としての形にしていきたいです。」
好きだけでは生きてはいけない厳しい世界かもしれませんが、絵を描くのが好きという気持ちは、チラシの裏に描いていた幼いころからずっと変わりません。