50人が語る「わたしの道」ライフキャリアマップ
2023/09/28
50人が語る「わたしの道」ライフキャリアマップ ー儀間 勇樹さんー
トポセシア10周年を記念してスタートした本企画は、これまでトポセシアに関わってくださった方の中から50人にインタビュー。
これまでのキャリアの中でどのような道を歩んできたのか、そして、これからどんな道を歩んでいくのか、記事として綴っていきます。
何かに迷った時、もう一歩踏み出したい時、また違う誰かの力になるはずです。
『沖縄出身の、日本を代表する経営者になりたい』
その想いを胸に、東京で挑戦を続ける儀間勇樹さん。
学生時代はインターンとして、トポセシアの成長を支えてくれた方でもあります。
大学卒業後、紆余曲折がありながらも夢に向かっていく儀間さんに、これまでの道のりを伺いました。
金銭的な不自由さが、憧れの種
「小学生の頃から、経営者になりたかったんです」
そう振り返る儀間さん。きっかけは、小学校の社会の先生の話だったそう。
「その先生の友人が、フランス家具を輸入している人だったらしくて。年商1億をやりとりしていると聞いたんです。沖縄だと『公務員になれ』ってよく言われるけど、公務員の平均年収よりもずっと大きなお金だなと感じて。だから、社長になったらすごくお金持ちになれるぞって思ったんです。僕は母子家庭で育っていて、当時は部活のシューズもなかなか買えなかったので、たくさんのお金を持つことに対して憧れがありましたし、お金持ちになれば家族も楽にできるぞ、って感覚でした。」
儀間さんの『経営者になりたい想い』は、金銭の不自由さを感じるたび、強く感じるようになっていったそうです。
「大学進学の時に、金銭的な問題から県内の大学しか選べなかったんです。しかも、県内の中でも国公立でないと厳しくて。何百と大学がある中で、僕が当時選べたのは名桜大学か琉球大学の2つだけでした。その中で『経営者になるために役に立つこと』を軸に、経営と英語が学べる大学・学部を選びました。経営はもちろんですが、国際的に発展させることも見据えて、英語も必須になるのではないかと感じていました。」
しかし、実は入学当初は全く英語ができなかったという儀間さん。
「僕、昔から『俺すごいだろ』って、井の中の蛙になっていることがよくあったんです。2年生の時に国際論文の発表会に出席したことがあって、僕は当時英語が得意でもなかったのに、プレゼンターを進んで引き受けました。でも、その時台本に書いてあったbe動詞が読めなくて。周りはあたりまえにできることができず、すごく悔しい思いをしたんですよね。」
その経験以降も、さまざまなイベントに参加したり、挑戦をしていく中で『自分よりすごい人』に出会ってきたと話します。
「例えば学生で起業している人に出会ったり、信念を持って活動している学生に出会ったり、そういう人に会うと『自分ってまだまだだな』と思わされるんです。自分の中の壁が壊されて、もっと広い世界を見る感覚ですよね。」
儀間さんは自分よりすごい人に会った時、劣等感を感じるよりも『その人に追いつきたい』と強く感じるそうです。
「こういう競争心の強さは、小学校からやっていたバスケットボールで培われたような気がします。特に僕は1on1が好きで。高校生の時には7:00とかから朝練を始めて、自分より上手い先輩に何度も対戦を申し込んだりしていました。勝ち負けがはっきりするのがいいんですよね。それにどんなに強い相手でも10回に1回ぐらいは勝てたりする。その勝つ喜びのために何度もチャレンジしている感覚でした。
だから大学時代も自分よりすごい人を見ると、追いつこうと頑張れたんだと思います。でも追いつこうとする過程でまた新しいすごい人に出会って、またさらに努力して…っていうサイクルだったんですが。笑」
出会いと挑戦を繰り返し、成長を続けてきた大学生時代。
『変化を与える出会い』の大切さを体感すると同時に、もっと多くの学生にも人生が変化するような出会いのチャンスを増やしたいと思うようになっていきました。
「そこで立ち上げたのが、学生団体MOVEMENTでした。社会人の先輩方を招いて、”20代の自分に伝えるメッセージ”というテーマで講演会を開いて。それが沖縄の学生の『ターニングポイント』になればと思っていました。ただ、やっぱりその活動の中でも上には上がいて。当時『ソフトバンクワールド』というイベントをソフトバンクが開催していたんですよ。イベントの内容は似ているけれど、主催が大手企業で資金力も影響力も全然違っていました。そこで、一緒にMOVEMENTを立ち上げた嘉陽とはよく『僕たち自身が大きくならなきゃいけないよな』という話をしていたんです。」
仕事も、お金も、彼女も失った
経営者になることを目指していた儀間さんは、大学在学中に会社を立ち上げます。
「在学中に立ち上げたのは、ヘルスケア系の会社でした。大学の友人数名と立ち上げて、ビジネスアイデアもたくさんあったんです。例えば『尿中から成分を検出してその人に合った薬を処方できたりしたらいいよね』とか。でも、キャッシュが手元になかったのでなかなか実現できない日々が続いていました。それで、東京のとある医療システム関係の会社から代理営業の案件をいただくことにしました。その委託案件でもらったお金で自分たちの会社を運営することにしたんです。」
その後、県内で順調にシステムを売り進めた儀間さん。
「代理営業するようになって2ヶ月後ぐらいには、正直ほとんど『売り切った』ような状態になっていました。いくつかの市町村では、全病院がシステムを導入してくれているようになっていて。成果は出せたと感じた反面、東京の会社のレベル感で仕事をするようになって、自分のビジネススキルの低さや沖縄という市場の狭さだったりを感じるようにもなっていました。自分が知らなかった世界が、沖縄県外にはまだまだありそうだなって。それで、その委託をもらっていた会社に正社員として入社することを決意しました。」
しかし、実はその1社目の企業は1年ほどで退職したと話します。
「働き方が合っていませんでした。長時間働く必要があったり、理不尽だと感じる要求も多く。最後は喧嘩別れみたいな形で退職してしまいました。」
振り返ると、この時期が人生でも1番の挫折だったと話します。
「1社目を辞めてから2ヶ月ぐらい何もしていない時期が続いたんですが、そのタイミングでいろんなものが無くなって。会社を辞めたからお金はない、でも次の仕事も決まっていない、その上、当時大好きだった彼女にも振られたんです。『ずっと起業したいって言いながら事業もないしお金もない。口ばっかりだね』って。その言葉が一番苦しかったかもしれないですね。」
ビジネススキルを培うための”就職”にも、疑問が残っていたそうだ。
「当初はもっといろんなビジネスの世界を見て学んで、自分が独立するときの糧にしようと決めた就職でした。でも退職した当時は『手に何も残っていない』感覚だったんです。スキルも、実力も、何も身についていない気がして。なんのために上京して、なんのために就職したんだろうって。だから、この先も就職の道を選んでいいのか、それとも早く起業すべきなのか悩んでいました。」
そんな喪失感と焦燥感、悩みに苛まれた時期に救ってくれたのは、周囲の親しい人間の存在だったと話します。
「あの時期は、母と大学時代からの友人だった神里に救われましたね。特に神里には『毎週土曜日に自分と向き合う会を一緒にやってくれ』と頼んで、改めて”なぜ東京にきたのか”ということや”今後どうするのか”を問いかけてもらいました。そうすることで、自分の気持ちや状況を整理できるようになって、前を向けるようになりました。」
神里さんとの話し合いの甲斐もあり、儀間さんはもう一度就職することを決めます。
「確かに1社目では会社に勤めていても何も身につけることができなかったと感じていました。だからこそ、当時の僕はまだまだ何も知らない状態だったんです。その状態で会社を立ち上げて、うまく経営していくことができるか?と問われれば、『難しい』というのが本音でした。だから、やっぱり実力をつけていくために、きちんと会社を選んで就職しようと決めました。」
『将来的には独立する』ことを目標に、会社を選ぶことに決めた儀間さん。
「転職活動の際は、3つの選社軸を決めていました。それが『①伸びている業界・企業であるか』『②多種多様な業界を相手にし、一般担当者から経営者までアタックする層が幅広いか』『③3年以内に新規事業の立ち上げに携わることができるか』でした。①は事業を成長させる要素を知るヒントになるのではないかと感じていました。②は1社目の経験が大きかったのですが、例えば医療関係だと仕事相手は医療系の人だけなので、それ以外のビジネスアイデアやチャンスに目が行きにくかったり、思考に偏りが出てしまっているなと感じていたので幅広い層と関われる仕事をしたいと考えていました。③は自分で事業を成長させる過程を踏んでみたいという思いから設定していました。」
会社で得たいものを明確にした転職活動。
最終的に、弁護士ドットコム株式会社に転職を決めました。
「コロナ禍だったこともあって、弁護士ドットコムのサービス内でも、特に『クラウドサイン』という電子契約を締結できるサービスがすごく伸びていました。当時ハンコ出社が話題になっていたこともあって、『書類の現物って本当に必要なのか』という疑問が多くのビジネスマンの中で共通してあったのが大きかったと思います。僕はその『クラウドサイン』の営業を担当していました。」
転職後は、持ち前の競争心と営業力を活かして仕事に励んだ儀間さん。
入社して1年後には、同社にいた40人の営業マンの中で成績トップに上り詰めたそうです。
「おかげで2年目から、新規事業の責任者を任せてもらえることになりました。これは本当にたまたまだったんですが、おかげで転職の際の軸だったことを3つとも叶えることができたんですよね。実際に経験して学んだこともたくさんありますし、やってよかったと感じています。」
転職前に感じていた『就職したのに手に何も残っていない感覚』。
しかし今、その感覚は全くないどころか、必要としていた経験も実力も、掴むことができたと語ります。
悩む人にターニングポイントを
儀間さんは転職後、想定通りに経験と実力を積み上げてきました。
そして2年ほど前から兼業という形で自分の会社を改めて立ち上げられたと話します。
「営業コンサルやカスタマーサクセスを行う会社を立ち上げ、経営しています。この2年間で15社以上の会社と、外注というよりは『就職したんじゃないか』と思うレベルで業務に入り込ませていただきました。おかげで、組織ごとに求められる価値の違いやそれに適応する力もついてきたのではないかと思います。申し訳ないことに価値を感じていただけず解約になったクライアントもいますが、そういう時こそやり方を振り返り、成長の糧にしてきたようにも感じています。そういった中でどんどん自分の名前で仕事を取れるようになってきて、自信もついてきました。」
今後は、自分と同じようにキャリアに悩んでいる人のサポートもしていきたいと話します。
「1社目で『今のキャリアのままでいいのだろうか』という思いはずっとあったんです。同時に『今のままで他社に行ったって通用しないんじゃないか』という迷いもあって、挑戦の1歩を踏み出せずにいた時期がありました。でも2社目の会社に入ってみて思ったのは、自分の力が活かせるか・やりたいことができるかは、組織の状況に関する要素も大きいということです。例えば、僕は入社して1年後には新規事業の責任者を任せてもらえましたし、マネージャー職もありましたが、こういったポジションにいたのは3〜4名でした。でも他の営業職36人が現状で満足しているかというと、全員がそうというわけではないと思うんです。だから、やってみたいことがあったり実力を試したかったら、副業や兼業という立ち位置でチャレンジしてみるのもいいんじゃないかと思っています。そういった、『今の会社で働きながら、兼業として別の場所で自分を試す経験ができる会社』をつくっています。」
そしてこの想いは、『若者のターニングポイントを創りたい』と考えていた学生時代と、ある意味重なるんだそうです。
「今経営している会社の名前は『MOVEMENT』なんです。学生団体をやっていた2015年当時、メンバーに『沖縄から世界的企業や日本を代表する企業を創るんだ』って宣言していて。そこから落ち込んでいた時期もありましたが、まだまだ諦めていないっていう意思表示の意味も込めて、思い入れのある名前を選びました。この会社から、自分も世の中も変わるし、変えていくっていう心意気で。」
儀間さんなりの強い想いをを込めて立ち上げた『MOVEMENT』。
ゆくゆくは沖縄の学生に挑戦の機会を提供できるような会社にもなっていきたいと話します。
「3〜4年後、自分でオフィスを持てるぐらいまで会社が成長したら、沖縄の学生をインターンとして迎えたりしたいなとも考えているんですよね。学生がいい大人・いい社会に触れる機会を、僕が学生だった時よりも何倍も大きい形でできる自分になっていたいです。」
そんな儀間さんは、10年後も変わらず挑戦し続けていきたいと話します。
「いくつになっても、できないことをできるようにしたり、目指しているものを目指し続けたり。そして、自分のキャリアを自分で築いていきたいと思う『人』の支援を続けたいです。そのためには、僕自身の実力も必要。その通過点として、今の会社を僕一代で上場企業にすることを目指しています。」
これまで自分を支えてくれた人を大切にしながら、大きな目標に立ち向かっていく強さを備えた儀間さん。
沖縄から、日本を代表する企業の代表になっている姿が目に浮かびます。