50人が語る「わたしの道」ライフキャリアマップ
2023/09/25
50人が語る「わたしの道」ライフキャリアマップ ー嘉陽 宗一郎さんー
トポセシア10周年を記念してスタートした本企画は、これまでトポセシアに関わってくださった方の中から50人にインタビュー。
これまでのキャリアの中でどのような道を歩んできたのか、そして、これからどんな道を歩んでいくのか、記事として綴っていきます。
何かに迷った時、もう一歩踏み出したい時、また違う誰かの力になるはずです。
沖縄県北部に位置する名護市。
「やんばる」と呼ばれる沖縄北部地域の中核都市として発展しています。2025年に開業予定のテーマパークやスマートシティ構想など、現在注目が集まっている場所でもあります。
そんな名護市で、市議会議員として活動している嘉陽宗一郎さんに、これまでの道のりを伺いました。
父親の涙が、人生で一番嬉しかった
「幼少期の頃から、好奇心旺盛な子だったと思います。幼稚園の頃、オオゴマダラの金色のサナギを見つけて、先生に『黄金が落ちていました!』と報告したこともあります。そのあとめちゃくちゃ怒られましたが(笑)」
ご自身の過去を振り返り、口元を緩める嘉陽さん。
思い返すと、何事にも興味を持つ子供だったそうです。
「通信簿には毎回『落ち着きのない子』と書かれていました。世の中のあらゆることに興味があって、落ち着いていられなかったんだと思います(笑)当時の先生方には厳しく指導していただき、そのおかげで今、少しは落ち着きのある人間に成長できたかなと思います。一方で頻繁に生徒指導されていた私に対して、両親は『ありのままで良い』と肯定してくれました。もちろん人として間違った行動をしたときには強く𠮟られましたが、基本的には私が何かしたいと話したときには『頑張りなさい』と、いつも背中を押してくれました。そんな両親の存在がいまの私に大きな影響を与えていると思います。」
そんな嘉陽さんの「人生で一番嬉しかった日」は『大学の合格発表の日』だったそう。
「大学の合格発表を家族で見にいきました。合格者一覧の中に私の受験番号を見つけたとき、父が泣きながら私を抱きしめて『自慢の息子だ』と言ってくれました。学歴にコンプレックスを抱えていた父にとって、私が大学に合格したことが本当に嬉しかったようです。父が泣いている姿を見たのは初めてだったので、驚きましたし、人生で一番嬉しかった瞬間でした。その時、『父が”生涯自慢し続けられる息子”でありたい』と強く思いました。」
嘉陽さんにとって、父親は尊敬している人物の一人だそう。
「小学生の頃、父と私で『月に一回は一緒にお風呂に入ろう』と約束を交わしていました。離島への長期出張などで忙しかった父ですが、私とお風呂に入るためだけに帰ってきてくれることもありました。今考えると“普通”ではないですよね。自分は愛されているんだって実感に繋がっていたように思います。リーマンショックを機に生活が苦しい時期もありましたが、『俺に任せとけ』と歯を食いしばりながら頑張っている父の背中を見ていたのも、尊敬の気持ちに繋がっています。その頃から、私も父のような男になりたいと思っています。」
大学入学後は父親の『自慢の息子』であるために入学当初から様々なことにチャレンジしてきたのだとか。
「1年生の時は、“いろんな沖縄”を知りたいという想いから県内の有人離島をすべて周り、沖縄が持つ大きな可能性を感じました。その経験は今の活動に繋がっています。またフィリピンでの国際協力のプロジェクトに参加したことも大きなきっかけとなりました。スラム街の子どもたちが通う学校でのボランティアでしたが、子供たちは毎日、袋に瓶を集めて登校してきました。拾った瓶を売ってお金にするのですが、うまく集められないときは学校に来られないんです。『家族にご飯をあげるために瓶を集めている』と、10歳にもならない子から聞いた衝撃は今でも忘れられません。環境によって学ぶことや自分の夢に挑戦することすら許されない子供たちを見て、『日本、そして沖縄は恵まれている』と体感しました。」
自分のやる気次第で色んなことに挑戦できる環境にいるのだから、もっと行動を起こそうと、2年生の時には東京の大手企業でたくさんのインターンシップに参加したそうです。刺激的な日々の中で沖縄が抱える様々な課題を強く意識するようになります。
「第一線で活躍する方々を間近で見て、国を動かす仕事のスケール感や事業を進めていくスピードに圧倒されつつ、仕事の進め方や向き合い方など多くの事を学びました。しかし何よりも私が学んだのは私自身が沖縄について無知であったということでした。当時はちょうど沖縄の基地問題やこどもの貧困問題が全国ニュースで取り上げられていて、『沖縄の問題をどう思う?』という質問にうまく答えられませんでした。東京から戻った時、それまで恵まれていると感じていた沖縄には実は多くの課題があることに気付かされ、その瞬間に初めて沖縄が“自分事”になったように思います。」
若い世代で沖縄を盛り上げたい!
沖縄が“自分事”になった嘉陽さんは「若い世代で沖縄を盛り上げたい!」と思い、行動を起こしていきます。
「『やりたいことや夢をもって行動する若者が増えれば沖縄は盛り上がる』という仮説のもとで、3年生の時に仲間と”MOVEMENT”という学生団体を立ち上げました。MOVEMENTでは『若者が一歩踏み出すターニングポイントを創ること』を目的に、ビジネス界の著名人や芸能人の方にご協力いただきながらトークイベントを実施しました。結果的に、沖縄の大学生の5%、1000名以上の若者に参加してもらうことができたんです。」
「イベント後には海外留学や起業に挑戦する同世代が出てきましたし、イベントを成功させるために行動するなかで多くの同世代の仲間ができました。また何者でもない私たちを応援してくれる“かっこいい大人”にもたくさん出会いました。そして沖縄が持つ大きな可能性や課題を知ることができました。MOVEMENTは私のすべてではありませんが、MOVEMENTがなければ今の私のすべてはないと言えるくらいに全力で取り組んだ活動でした。気が付いたら『父に自慢され続ける息子でありたい』という想いはいつしか『沖縄に貢献できる人間でありたい』という想いに変わっていました。」
MOVEMENTの成功によって若者世代のインフルエンサーとしてテレビ、新聞、ラジオへの出演や各種イベントに声をかけてもらうようになったそうです。
「『沖縄で一番有名な大学生』と言われ、調子に乗っていた時期だと思います(笑)振り返ると恥ずかしいエピソードばかりですが『とんがってて面白いな!』と色んな場面に声をかけていただき、引き上げてくれた皆さんには本当に感謝しています。」
様々な社会人や学生との関わりの中で、『いつか政治家になりたい』と思い始めるようになったのもこの頃だった、と振り返る嘉陽さん。
「様々な人との出会い、その皆さんからいただいた多くの機会など、活動を通して沖縄に対する想いはさらに強くなり、『生涯をかけて沖縄のために働きたい』、いつかは政治家として『沖縄の課題解決や可能性を開花させていく仕事がしたい』と思うようになりました」
“評価の変化”への戸惑い
その後の大学生活ではMOVEMENTでの活動や各種メディア出演のほかにも「これからの日本を動かす250名の大学生」に選ばれ、その繋がりを活かして日本全国一周や海外への留学などを経験した嘉陽さん。
新卒で県外企業に就職することになります。
「新卒では経営コンサルティングの会社に入社しました。ホテルや介護、飲食のコンサルティングや、海外支社の設立、大手企業の沖縄進出のお手伝いなど、いろんな仕事を卒業前の4年生後半から経験させてもらいました。」
順調に聞こえる社会人生活だが、実は嘉陽さんが一番挫折したのは大学卒業後すぐのこの時期だったそう。
「大学生の頃はよく『学生なのにすごいね』って褒められていました。多分、沖縄で一番その言葉をかけられていたんじゃないですかね(笑)それを自分自身の評価だと勘違いしていたんです。社会人になって、当然ですがメディア出演などの依頼もないですし、コメントを求められることもない。これまで頻繁にあってくれていた社長さんには『学生じゃない君に用はない』とまで言われました。社内でも自己評価の高い“痛い新入社員”だったと思います。いまでは笑って話せますが、当時はうまくいかない毎日や評価の変化に対して戸惑ったし、焦ったし、自分に価値はないのかと深く悩んでいました。しかしその挫折経験が自分を見つめ直す大きなきっかけとなりました。まだまだ何者でもないと正しく理解できました。自分自身が評価されていたわけではなく『”学生が”頑張ってること』が評価されていただけだったと。社会人として評価されるためにしっかり力をつけていく必要があるし、一つ一つ実績を作っていくことが大切だと感じ、そこから謙虚に色んなことに取り組めるようになったと思います。悩んでいた時期には、学生時代から“学生”としてではなく“嘉陽宗一郎”という人間として関わってくれていた先輩方が相談に乗ってくれたり、仲間が愚痴を聞いてくれたりして、気が楽になりました。皆さんには本当に感謝していますし、『期待しているから頑張れ』と励ましてもらって、元気をいただきました。」
自分自身を見つめ直して働くようになった嘉陽さん。
コンサルティング会社でさまざまな経験をした後、地元の名護市に戻ります。
「県外に出ても『沖縄に貢献したい』という想いは変わらずむしろ強くなっていきました。沖縄のリーディング産業である観光産業を現場から盛り上げていくため、転職を決意して、地元の名護市にあるリゾートホテルの社長に直談判に行きました。」
その社長さんは嘉陽さんが学生時代からのお世話になっていた方で、直接の面談に応じてくれたそうです。
「前職の代表は学生時代からお世話になっていました。よく『うちはホテルをやっているのではなく、街づくりをしている』と仰っていて、もともと興味を持っていたんです。その言葉の通り、ホテルという施設を集客のキーとしながら地域の様々な事業所との連携や地元食材・人材の積極的な活用、また周辺の環境に配慮しながら地域をどう盛り上げていけるかという視点で事業を行っています。この会社で沖縄や名護市の発展に貢献していきたいという想いをぶつけて、その想いを代表が汲み取ってくださり、転職が決まりました。」
新しい職場では“社長室経営戦略チーム 社長秘書”兼“SDGs推進室室長”として働いていた嘉陽さん。
経営戦略の策定や地域連携の取り組み、観光業界のブランド力向上に向けた取り組み、社内でのSDGsの推進、新卒採用などの幅広い業務を行っていたそうです。
そんな中、世の中はコロナ禍へと突入していきます。
嘉陽さんが働いていたホテルも大きな打撃を受けました。
不安定な情勢の中で経営していくことの難しさを感じた、と振り返ります。
「景色が変わる瞬間を見ました。これまで沖縄の観光は絶好調で毎年観光客数は増加。新しいホテルも建設ラッシュでした。どうやって現場を回すためのスタッフを確保するのか、どこに投資してホテルを含めた周辺地域の魅力を高めていくのかという議論をしていたところに、新型コロナウイルス感染症の世界的な流行による行動抑制、景気悪化。新しいスタッフの確保ではなく今いるスタッフの雇用をどう守るのか、売上が激減するなかでどう施設のクオリティーを維持していくのか。攻めから守りへ一気に方向転換しました。代表の指示で会社を守るためにあらゆる補助金を調べて、活用を進めました。また観光業界のために業界の皆さんと情報交換を行いながら行政への提言を行ったりもしましたが、混乱する状況ではなかなか難しいことばかりでした。また情報が錯綜するなかで混乱する市民のみなさんや日に日に経営が厳しくなっていく事業者のみなさん、アルバイトなどが削られ生活が苦しくなっていく学生のみなさん、あらゆる機会が奪われていく子どもたち、そんな疲弊していく街を見て、政治の重要性を改めて強く感じました。」
会社の仕事以外でも学生への生活支援物資無料配布や給付金申請サポートなどの活動をしていた嘉陽さん。様々な活動をするなかで社会のセーフティーネットへの疑問やあらゆる物事を進める際のボトルネックに苦労します。これまでの経験やコロナ禍による大きな時代の変化の中で、学生時代から志していた政治の道へ進むことを決意します。
期待してくれた市民の方々のために
「新型コロナウイルス感染症の世界的な流行は社会のこれまでの在り方を大きく変化させました。昨日までの正解は今日の不正解となり、社会の変化のスピードは日に日にその速さを増しています。そういった中でこれからも持続的に発展する地域を作っていくためには、これまで地域を引っ張ってこられた先輩方の知識と経験に、これまで政治と距離のあった10代~30代までの若者やこれまでなかなか政治に声が届かなかったマイノリティーといわれる皆さんの声を融合して、世代を融合して、1+1が3にも4にもなるような化学反応を起こしていく必要があると思っています。そして私がその世代を融合し、多様な声を届けていく役割を果たしていきたいと考え、名護市議会議員選挙への立候補を決意しました。」
立候補を決意してから、選挙までは苦労の連続だったと語ります。
「これからこういう時代を創りたい!そのためにこういうことをしたい!という想いしかありませんでした。27歳無名の新人の私にとって本当に厳しい戦いでした。『まだ若い、もっと色んな経験をしてからにしなさい』という声もいただきました。それでも毎日、市民のみなさんに私の想いを伝えてまわりました。一人ではじめた私の挑戦は、いつしか同級生や地元の皆さんにご協力をいただきながら“私たちの挑戦”に変わっていきました。30名以上の方が立候補し、その候補者の皆さんは本当に素晴らしい方でした。色んな繋がりがある中で私を応援する理由よりも応援しない理由を見つける方が簡単だったと思います。そういった中でも私を応援してくれた方々のために絶対に当選すると毎日必死に頑張りました。」
そして2022年9月11日。
嘉陽さんは、名護市議会議員選挙において新人歴代最多得票となる1,991票を獲得し、見事当選を果たします。
「予想もしていない得票に正直驚きました。それと同時に何者でもない私に“預けていただいた1票”をもっと価値のある1票にしてお返ししたい。『宗一郎を応援したのは私たちだよ』と自慢してもらいたい。そして私の地元の名護市をもっと発展させていきたい。その想いで与えられた4年間の任期を全力疾走で頑張っていく決意です。」
これからの名護市、そして沖縄についてはこのように語ります。
「昨年、日本は80万人、人口が減少しました。そして2025年には高齢化率が30%となります。生産年齢は減少し、社会保障の負担は大きくなっていくことが予想され、日本の財政はさらに厳しくなっていきます。そういう中でこれまで沖縄についていた予算も削減されるだろうと。これから沖縄が国の予算をしっかり獲得していくためには沖縄の提案が日本を元気にし、沖縄が日本を引っ張っていくような姿を示していかなくてはいけないと思います。『沖縄を元気にすることは日本を元気にすること』と繋がっていて、私はそういう仕事をしたいと考えています。」
一方で、市議会議員としての仕事はまだまだ慣れない部分もあると語ります。
「大きな目標はありますが、現状は市民の皆さんのお困りごとを解決することで精一杯です。民間企業とは違うことだらけで、わからないことや覚えることもたくさんあります。議員に当選してから1日も休んでいませんが、全然時間が足りません。民間時代に『労働の対価ではなく、成果の対価として報酬が支払われている』と教えていただきました。色んな考え方があると思いますが、私はこの考え方に共感しています。議員となったいまの報酬は市民の皆さんの大切な税金からいただいていますので、民間時代以上にそのことを強く意識しています。出来たことや目処がたったこともありますが、自己評価はまだまだです。『これをやりました!』と胸を張って言えるように与えられた任期を全力疾走で頑張っていきます。力不足を感じて落ち込むこともありますが、やりがいがあって、議員として仕事をさせていただいてることにいつも感謝しています。これからを見据えた持続可能な街づくりのために、多様な声を届け、世代を融合する役割としてこれからも活動していきます」
『沖縄を良くする』という大きな目標の前では、思うようにいかないこともあるかも知れません。それでも嘉陽さんなら、自分を信じてくれた方々のために努力し続けていくのでしょう。